青春のギャラリー
青春のギャラリー 1
  • 堀 六平と「わさびーず」の存在の意味と価値
  • 「わさびーず」の音楽活動と、昭和30年から40年頃の音楽事情
  • 当時の社会と音楽事情
  • 青春のギャラリー 2
  • 初代わさびーず
  • 田舎のスター「わさびーず」
  • アメリカンフォークソングとの出逢い
  • 青春のギャラリー 3
  • わさびーず21
  • 日本のフォークソングは童謡唱歌
  • アメリカの元々のフォークの精神とよく似ている日本の童謡唱歌
  • 青春のギャラリー 4
  • 過去の栄光に酔いしれてばかりいられない
  • 番組出演
  • (海外研修)

  • 堀 六平と「わさびーず」の存在の意味と価値

    堀六平と「わさびーず」は今年で活動40年の佳節を迎えた。六平と、この音楽グループを中心として当時の若者達が音楽創造活動をした一大運動を、単なる道楽活動と評されるならば、あえて論じることもないが堀六平とその仲間たちの大衆音楽文化創造活動は、戦後の日本復興の時代の流れと国家隆盛の礎となって奮闘した団塊の世代の若者たちの青春時代とが重なった歴史の1ページとして注目することができる。  昭和44年。六平は大学のサークル活動や個人で音楽を楽しんでいたメンバーと、「元祖わさびーず」を結成してグループ活動を開始した。オリジナルメンバーは、堀六平、耳塚秀三郎、島方久人。昭和48年にNHKのオーディションを通過した後に中村雅彦が合流して初代の「わさびーず」となった。後に多くのフォークアーチストを輩出した「ヤマハ音楽振興会」もまだ創業していなかった時代で、唯一のメジャーオーディション機関はNHKのみだった。NHK総局初の創作的フォークアーチストとしてのエントリーだった(故白井康幹演芸番組班制作主幹 談)。音楽界のドンといわれた藤山一郎氏に初めてお目に掛かったのもこの時で、これは新旧の接点であり、また未来への分かれ目でもあった。このオーディションを評点トップで通過した「わさびーず」は、やがてプロの道を歩き始めることとなる。

    初代わさびーず


    「わさびーず」の音楽活動と、昭和30年から40年頃の音楽事情

    1960年(昭和35年)以降は、敗戦以来抑圧されてきた若者たちの政治的目覚めの時代でもあった。当時多くの若者たちは、学生、社会人を問わず日本のあり方に疑問を持ち、アメリカとの関係に不満を抱えていた。そして安保条約更新阻止闘争を初め国家に対する社会運動が過激になり、各地で火花を散らしたが、やがてそれも国家権力に押さえられる形で沈静化していった。昭和39年に開催された東京オリンピックを契機に若者たちは高度成長の波に乗り、あらゆる日本文化を謳歌するのである。

    当時の社会と音楽事情

    音楽事情に絞って考えてみる。政治闘争や大学改革などの戦いに敗れた若者たちは、虚無感と失意の中にあり、音楽への思考さえも変わっていった。当時、日本のレコード出版量は1億2千万枚で、アメリカに次いで世界第2位を誇っていた。1961年(昭和31年)の安保闘争に破れた虚脱状態を反映してか、中央集権的に一方的に流れていた音楽が、若者の好みや主張によってレコード業界が迎合する形に変わった。若者はやりきれない気持ちから抜け出そうと音楽に癒しを求めた。無責任時代や、リバイバルカバー曲が一世を風靡し、また巷では歌声運動が盛んになり、歌声喫茶が流行った。「北帰行」や「北上夜曲」「ロシア民謡」など哀調を帯びた曲がブームになったのもこの頃である。また、坂本 九、植木 等などの個性的なアーチストが受け入れられるようになり、テレビでは一見すると明るいが、どこか時代を茶化すようなバラエティ番組の放送が始まった。
      その一方で、高度成長の波に乗って、希望や夢につながる青春歌謡が台頭するようになった。橋 幸夫、吉永小百合、北原謙二らの若い歌手たちが次々とヒットを飛ばし、海外のアーチストたちの作品が怒濤の如く流入してきた。ドドンパ、ツイスト、グループサウンズ、そして日本映画界では石原裕次郎、小林 旭、浜田光夫、宍戸 錠、吉永小百合らがスターダムにのし上がっていった。人々は三種の神器を競って求め、流行のステレオや蓄音機、カーラジオからは軽快な音楽が流れていた。
      やがてテレビが普及し始めると、プロレス番組や海外からの西部劇などが放映され、国内では子ども向けの番組「月光仮面」、「白馬童子」などに人気が集まった。外国からはプレスリー、ポールアンカ、ニールセダカやカスケイズなど、今でも馴染みのポップス(流行歌)音楽が入ってきた。
      昭和39年の東京五輪で、大松監督率いるバレーボールチーム「東洋の魔女」が金メダルを取る。社会でも企業意識の高揚や、奮闘努力誠心の高揚が叫ばれるようになり、これを機に三波春男、村田秀夫、美空ひばり、水前寺清子などの「どっこシリーズ」と呼ばれた、男気のある「根性もの」の歌が出てきた。「お座敷小唄」など適度にお色気のあるエロ音楽がヒットしたり、マイホーム主義的な生ぬるいラブロマンス恋歌などが出回る。テレビ番組もアットホームなものが多くなった。国民が自ら安逸な社会を選んだのか、アメリカの占領政策のひとつとして一気に流れ込んだのか、国が国民の闘争心を骨抜きにするよう仕掛けたのか、いずれも定かではない。しかしこれ以降、怠惰な風潮に堕落していく日本の姿を見ることになるのである。