青春のギャラリー
青春のギャラリー 1
  • 堀 六平と「わさびーず」の存在の意味と価値
  • 「わさびーず」の音楽活動と、昭和30年から40年頃の音楽事情
  • 当時の社会と音楽事情
  • 青春のギャラリー 2
  • 初代わさびーず
  • 田舎のスター「わさびーず」
  • アメリカンフォークソングとの出逢い
  • 青春のギャラリー 3
  • わさびーず21
  • 日本のフォークソングは童謡唱歌
  • アメリカの元々のフォークの精神とよく似ている日本の童謡唱歌
  • 青春のギャラリー 4
  • 過去の栄光に酔いしれてばかりいられない
  • 番組出演
  • (海外研修)

  • 初代わさびーず


    田舎のスター「わさびーず」

     安曇野の田舎で活動を始めた「わさびーず」に、時代の流れに敏感なマスコミの関心は高く、田舎の若者たちといった物珍しさもあって「わさびーず」を大きく扱った。既にフォーク音楽業界の一線に立っていた「上條恒彦」氏に続けとばかりに、「わさびーず」はフォーク界に果敢に挑んでいった。戦後20年経て新たな時代へのスタートを切った当時の人々に、そんな「わさびーず」の姿は夢を与え、後に続く若者たちの憧れを誘った。当時「わさびーず」のメンバーたちも時代を読み切っていたわけではない。しかし、やがてくる農業受難の時代をあたかも予知していたように、田舎の農業を巡る事柄、田舎の人情、風俗、自然保護などをモチーフに独自の田舎音楽を制作をしていた。ファッション的に話題になっただけでなく「わさびーず」が、都会とはひと味違った音楽作りをしていたことは業界からも注目されていた。しかし大きな時代背景を背負い華々しく船出したグループだったが、世間の人々には一体どのくらい受け入れられていたのだろう。そのまま順調に成功していくように思われた「わさびーず」だったが、この後に本当の苦労が待ち受けていることを、誰が予想したであろう。(わさびーずの苦労話は「わさびーず青春記」を参照のこと)


    「わさびーず」の音楽活動と、昭和30年から40年頃の音楽事情

    (アメリカンフォークソングと日本フォークソング・その概念の違い )
     東京五輪以後、アメリカのピート・シーガーやウイー・バース、ピーター・ポール&マリー、キングストントリオ、ブラザースフォーの曲が日本に入ってきて、「500マイル」「花はどこへ行った」「パフ」「七つの水仙」「朝日の当たる家」などのアメリカンフォークソングが流行し始めた。その前年に東京日劇で開かれたフォークフェスティバルで、浜口庫之助の「バラが咲いた」をマイク真木が唄って大ヒットした。それを機に、日本に爆発的なフォークブームが訪れた。しかし、日本のフォーク運動はアメリカとは違い、社会闘争を支持するための音楽運動とはかけ離れたもので、アメリカから入ってきた新しい分野の音楽という認識でしかなかった。事実、第一次フォークソングブームのほとんどは、アメリカから輸入された作品であり、フォーク運動の中から何らかを創造させることもなく、ただアメリカの真似をしているだけに過ぎなかった。やがて自主制作、自作自演の社会派歌謡というジャンルが生まれる。このような社会事情を巻き込みながら日本音楽は変遷していった。
      1969年(昭和44年)頃に、第二次のフォークソングブームが訪れた。このあたりから一人一人に語りかけたり、思春期の若者の内面の主張に重点が置かれた作品が多く制作された。これが日本フォーク音楽の流れになっていったのは実に特徴的だった。物真似ではなく、オリジナリティのあるアーチストや作品が次々と生まれ、社会風刺や政治批判、安保、反戦、差別問題、受験、恋愛、主婦、生活、労働などなどを歌い上げた。このようなフォークブームを受け、弾けなくても家にギターがあるというほど普及したギターは、ファッションの一部となっていった。しかし、フォーク本来の市民運動の高揚という目的は若者たちの支持を得られないままに行き詰まり、持続することもなく終わってまった。
      日本の高度成長に伴い、日本人の精神構造は大きく変化した。戦いや闘争などを避ける風潮となって、アメリカのフォーク運動は徐々に衰退していった。そして日本のフォークソングは、中流階級を意識したような甘いカレッジフォークに取って代わった。音楽業界でも新しい構造改革が図られたり、音楽そのものが多様化したことで、タイプの違う様々なアーチストが現れてきた。
    昭和44年。六平は大学のサークル活動や個人で音楽を楽しんでいたメンバーと、「元祖わさびーず」を結成してグループ活動を開始した。オリジナルメンバーは、堀六平、耳塚秀三郎、島方久人。昭和48年にNHKのオーディションを通過した後に中村雅彦が合流して初代の「わさびーず」となった。後に多くのフォークアーチストを輩出した「ヤマハ音楽振興会」もまだ創業していなかった時代で、唯一のメジャーオーディション機関はNHKのみだった。NHK総局初の創作的フォークアーチストとしてのエントリーだった(故白井康幹演芸番組班制作主幹 談)。音楽界のドンといわれた藤山一郎氏に初めてお目に掛かったのもこの時で、これは新旧の接点であり、また未来への分かれ目でもあった。このオーディションを評点トップで通過した「わさびーず」は、やがてプロの道を歩き始めることとなる。東京五輪以後、アメリカのピート・シーガーやウイー・バース、ピーター・ポール&マリー、キングストントリオ、ブラザースフォーの曲が日本に入ってきて、「500マイル」「花はどこへ行った」「パフ」「七つの水仙」「朝日の当たる家」などのアメリカンフォークソングが流行し始めた。その前年に東京日劇で開かれたフォークフェスティバルで、浜口庫之助の「バラが咲いた」をマイク真木が唄って大ヒットした。それを機に、日本に爆発的なフォークブームが訪れた。しかし、日本のフォーク運動はアメリカとは違い、社会闘争を支持するための音楽運動とはかけ離れたものでアメリカから入ってきた新しい分野の音楽という認識でしかなかった。事実、第一次フォークソングブームのほとんどは、アメリカから輸入された作品であり、フォーク運動の中から何らかを創造させることもなく、ただアメリカの真似をしているだけに過ぎなかった。やがて自主制作、自作自演の社会派歌謡というジャンルが生まれる。このような社会事情を巻き込みながら日本音楽は変遷していった。
      1969年(昭和44年)頃に、第二次のフォークソングブームが訪れた。このあたりから一人一人に語りかけたり、思春期の若者の内面の主張に重点が置かれた作品が多く制作された。これが日本フォーク音楽の流れになっていったのは実に特徴的だった。物真似ではなく、オリジナリティのあるアーチストや作品が次々と生まれ、社会風刺や政治批判、安保、反戦、差別問題、受験、恋愛、主婦、生活、労働などなどを歌い上げた。このようなフォークブームを受け、弾けなくても家にギターがあるというほど普及したギターは、ファッションの一部となっていった。しかし、フォーク本来の市民運動の高揚という目的は若者たちの支持を得られないままに行き詰まり、持続することもなく終わってまった。
      日本の高度成長に伴い、日本人の精神構造は大きく変化した。戦いや闘争などを避ける風潮となって、アメリカのフォーク運動は徐々に衰退していった。そして日本のフォークソングは、中流階級を意識したような甘いカレッジフォークに取って代わった。音楽業界でも新しい構造改革が図られたり、音楽そのものが多様化したことで、タイプの違う様々なアーチストが現れてきた。